京大サークル CARP(原理研究会)
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利己的でない遺伝子
今回は、ハーバード・ビジネス・レビューの2012年2月号に載った記事から。


その名も

「利己的でない遺伝子」

です。


Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 02月号 [雑誌]Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2012年 02月号 [雑誌]
(2012/01/10)
不明

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おそらくこれは、

リチャード・ドーキンスさんの『利己的な遺伝子』に対応して書かれたんでしょうね。


利己的な遺伝子 <増補新装版>利己的な遺伝子 <増補新装版>
(2006/05/01)
リチャード・ドーキンス

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学問の世界では、よく「モデル化」ということが行われます。

これはある現象をとらえやすくするために、

学者達が考えるものです。



たとえば、経済現象を考える際において、

人間を「合理的な存在」、

すなわち、「どんなときでも合理的判断によって行動する存在」

としてとらえたり、


経営学においては、人間を「なまけものな存在」ととらえたり、

「元来働き者」ととらえたりします。



そして、上記のように、ある学問をするときに、

「人間をどのような存在だととらえるか」ってけっこう重要で、

それによってその後の考え方が大きく変わってくるのですが、

これまでは人間を「利己的な存在」ととらえることが主流でした。

これはどういうことかというと、

人間はみんな自己中だ、ということです。



人間がみんな自己中だととらえるとどうなるか。




例えば、政治。

自己の利益を追求する人しかいない世の中。

その世の中をうまく治めるためには、

社会のために生きる人が得をするような制度をつくればいいことになります。



また、社内において報酬制度をつくるときも、

頑張れば頑張るほどその人の給料が上がるとか、

特権的地位が与えられるとかするようにすればよいでしょう。




しかしながら今、

人間ってほんとうに自己中(自己の利益ばかりを追及する存在)なの?

という意見が出てきています。




例えば、

献血の事例があります。

これは、「利己的でない遺伝子」のなかに出てきた話ですが、

献血した人に報酬を与える制度をつくれば、

人間は自己の利益を追求する存在なので、

献血する人が増えると考えたらしいが、

実際は減ってしまったらしい。


しかし、

その報酬をさらにほかのことへ寄付できるようにした場合は、

献血する人が増加したらしい。





また、

選挙で投票する人を

利己的行為としてどう説明できるのか?

という問いも書かれている。



私たちの日常行為を考えて見いてもそうだ。

例えば、

バスの中で何気なく席を譲る。

その行為は利己的なのか?


ただ譲りたくて譲ったし、

そこにとくに理由はないかもしれない。




また、宿題で困っている弟の支援をしてあげる。

これもどこに利己的動機があるのか?




人間って、確かに利己的なとこもあると思う。

しかし、すべてがそうではなくて、

それじゃあ説明できないことって多いと思う。


例えば、

震災の際に、

福島の原発で復旧作業をしていた人や、

ボランティアをしていた人のどこに

利己的動機があっただろうか。





現在、人の研究はさかんにされている。


あるゲームの結果によれば、

30%は常に利他的に、

もう30%は常に利己的に、

残りの40%は状況に応じて

利己的になったり利他的になったりするらしい。




また、ミラーニューロンという細胞も見つかっている。




果たして人間は利己的か、それとも利他的か。



それによって世界観がかわるし、

人付き合いも変わるだろうし、

法律も社会制度も変わるだろう。






最近こんな研究も発表されています。

ネズミは仲間見捨てない

個人的には、ネズミも為に生きるんだなーと思って感動しました。


これも利己的に説明しようと思うとできるんですよね。

例えば、「ほかの鼠が苦しんでいる姿からくる自己の苦痛から逃れるために助けた」とか。



だけど、人助けするときの感覚とちょっと違う気がする。

道端で道に迷ってそうな人がいたら、

なんとなく声かけるし、

駅で階段付近で立ち往生してそうな車いすの人がいたら、

衝動的に声かけるし。



これも、

利他的行動によって得られる喜びや、

他人が喜んでいる姿を見ることによって得られる喜びを得たいという

自己中心的欲求によって行動していると言われたらそれまでなんですが。



もう、自己中の定義さえよくわからなくなってきたぜ(笑)



ただ、思うのは、

全てを自分の利益のみを追求する

自己中心的人間観でとらえるのには限界があるということです。




みなさんはいかがお考えでしょう?











統一思想では、人間には「心情」というものがあるとされています。

「心情」は、「為に生きることによって喜びを得たいという情的衝動」と定義されます。

したがって、人間はある意味自己中。

だけど、「為に生きることによって」喜びを得たいと思っているので、

利他的でもあります。





最後に、宮沢賢治さんの文章から

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

『農民芸術概論要綱』





Hoppe
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コメント
No title
自分も経験上、「ボランティアすることを通して喜びを得たい」と思ってボランティアに参加したことはないと思います。
終わった後に「参加してよかったなぁ」と思うことはありますが。

何かに取り組みだすときって、
自分の利益がどうのこうのとか考えていないような気がします。
この間も人がたくさん乗っているバスで、なかなか降りられないおばあちゃんがいて、その人のために「降りる人がいます!」ってそのおばあちゃんのかわりに大きな声を出したことがあります。バスも動き出しかけていて、そのおばあちゃんも大きな声を出せそうになかったので声を出したのですが…。そのときは自分でもびっくりするぐらいとっさに声が出ました。

自分の場合、人が困っているのを見たときに、自分が困っていた時の記憶が呼び起されて、「こういうとき、こうしてもらえたらうれしかったよな~」というのが自然に出てくるような気がします。それでその通りにやってみるとうまくいったりして。

はたしてどうなんだろう?
[2012/01/09 13:28] URL | Ras #- [ 編集 ]


ボランティアに行く時に「ボランティアする事を通して喜びたい」と思って行く人はまずいないでしょうね。

特に被災地にとどまってボランティアし続けている人達。一日重労働の日もあるし、寝床や食べ物を自分で用意しなければなりません。しかもお金はもらえない。

もし人が利己的であればわざわざ東北の地まで行ってボランティアする人はいないでしょうね。いつも通りの生活を続ける事の方がその人にとっては楽でしょうから。


[2012/01/08 23:15] URL | 巌 #- [ 編集 ]


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