京大サークル CARP(原理研究会)
京大公認サークルであるカープ(原理研究会)の公式ブログです。私たちは統一原理という理念を掲げて、周囲に希望を与えます!
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日本人と宗教 〜ぷち書評「おぎん」芥川龍之介〜
お元気様です。

久々の記事更新どす。

完全に梅雨入りです。

こんな日は…服は部屋 干し…

不思議な香りが教室を包み込みます (*m*)クチャイ


      梅雨にをふ教室駆ける足音と

            わめく声にぞ  母校を懐ふ



学校1

中学一年生が担当のクラスなんですが…

きっと「小学1年生」と書いて「うちゅうじ ん」と読むに違いありません。

食事中に突然奇声をあげる、

先生に怒られても逆ギレ、

挙句、私を“〜ちゃん”呼ばわり…


(゚Д゚)ハァ?


(#・∀・)ムカッ!!


( ゚皿゚)キーッ!!


ヽ(`Д´)ノプンプン


と内心思うこともありますが、

“せんせぇ〜”(アクセントは1文字目のせかな?)と独特の大阪なまりでよばれると、

思わず顔がほころぶっちぃです。

( ̄ー ̄)bドヤッ!

いと愛らし…。


     “せんせぇ〜”と

     向けば群れなす子どもたち

     まるで紫陽花 いや、雨蛙


群れる彼らのかわいさは、

あじさい

集まって咲く紫陽 花の静的なイメージよりも

雨蛙

“ケロケロ”と鳴く カエルの滑稽な愛らしさに近い。

今回は教育実習ネタで行きまっせぇ!

U>ω <)ノ シッ!!



こないだ授業見学した国語の授業で使われていた

芥川龍之介の短編小説「おぎん」です。







奉教人の死 (新潮文庫)奉教人の死 (新潮文庫)
(2001/09)
芥川 龍之介

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今回は“おぎん”しか読みませんでしたが、

上記の書籍には同じような短編小説がいくつか収められているそうです。

ま。

私はネットの「青空文庫」で済ませましたが(^_^;)

さて本題に入ります。


   本作「おぎん」の主人公おぎんは幼くして自ら の両親を亡くし、

   敬虔なキリスト教徒であ る夫婦の元で養女として暮らしていた。

   おぎんはその純真さ故、過去にその信仰を 疑ったことはなかった。

   しかし、イエス降誕のある日、その信仰の故に養父母と共に捕えられ、

   拷問を受け、ついには磔(はりつけ)にあい、

   挙句火破りに遭うことになる。

   どんなに厳しい拷問にも耐え抜いた彼ら だったが、

   正に今わの際、

   今にも手をかけられる瞬間におぎんは信仰を「捨てる」と言い放つのである。

   それを見た悪魔は喜び、聖書に化けて飛 んでゆく。

   それを受けて最後に、筆者は「甚だ疑問である」となげかける。



と、いうお話。

実はこれ、かつて長年採用されていた夏目漱石の「こころ」に代わって入れられたみたいです。

(母校国語教師談)

「こころ」は言わずと知れた人の心の二面性をテーマに描いた作品ですね。

統一原理で言えば、「本心と邪心の葛藤」の物語となるのでしょうか。




隠れキリシタン




さて、以下は私的な見解ですので、悪しからず。

今回の“おぎん”の最大のテーマは、

おぎんは何故棄教するのかということでしょう。

彼女は別に命が惜しかった訳でもなけれ ば、

キリスト教を不信した訳でもない。

ただ、仏教徒として無知なるままに昇天した両親を差し置いて、

自分が天国へ行く事が、はばかられた…

それが彼女の棄教を促した動機だと読み取れます。

そして、彼女の純真な こころに触れた義母は

「私は天国へ行きた いのではなく、あなたと一緒にいたいの」 と告白。

結局、「 愛するもの>キリスト教 」であると気づき親子3人とも棄教してしまう。

先生の解説によれば、

この文章からは「宗教は人間の精神生活を豊かにするために生まれた」と読み取れるのだそうです。

御利益信仰ってヤツですね。

たしかに、そういう側面もあるかもしれませんが、

そのロジックでは殉教の理由が説明できません。

この物語の下地になっているのは、

幕府の激しい迫害の中殉教した、いわゆる“キリシタン”たち…

どんな思いで亡くなって行ったんでしょうか?

十字架

日本にない文化なんだから、

自分たちの持っているものさしだけで測らない方が良い気がします。

教科書で、こんな形でキリスト教を描いていると、

戦後、宗教性 を排除した日本人が、

宗教国家を相手に、 生き抜くためには、

「宗教」を徹底的に滑稽なものとして描く以外になかったのかも…

と思ってしまいます。

防衛機制で言う「合理化」、

いわゆる、 すっぱいぶどうの原理ってヤツですな。

信仰を持ち続ける人には

、信仰をもつ人にしか 見えていない価値が見えているのかもし れませんね。



京大CARPでは、普段では見過ご されたり、

価値視されないようなものにも 光を当てて、

科学、心理学や哲学、宗教に 至るまで様々な視点から研究しています。





たかだか、18,19で培った人生観・価値観 に囚われていませんか?

CARPでは新しいもの、

今まで考えたことのないようなものに

興味関心をもっている京大生を大歓迎します!

一緒に活動してくれる人大募集

いつでも気軽にどうぞ!!!
 
 
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↓今日も幸せ☆ぽちっとな


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コメント
ありがとう。
なるほど、よくわかりました。
たしかに宗教は、全体目的があって初めて成り立ちますね。全体目的の中で個体目的も成り立つというわけですね。
同意見です。
[2012/06/19 20:25] URL | くぼっさん #- [ 編集 ]


くぼっさんコメントありがとうございます。
>>「宗教は人間の精神生活を豊かにするために生まれた」
>この内容は、「殉教」することにつながると思います。
いやはや、おっしゃる通りだと思います。
この表現の仕方だとそういったとらえ方で間違いないと思います。
私の意見を反映さすためには、
「宗教は“個人の”精神生活を豊かにすることのために生まれた」(A)
とすべきでした。
ここで、表現したかったのは、宗教は何も個人の救済のみを志向しているのではないという点。
統一原理的な解釈では、あらゆる存在の存在目的には個体目的と全体目的とがあり、あらゆる存在が関係しあうことによってはじめて存在します。
よって、この定義(A)では個体目的しか果たしていないことになり、統一原理的な宗教の定義からは半分のみを表現していることになります。
(ちなみに、統一原理では究極の全体目的は「神」)

例えば、野球を定義するとき、「野球はボールをバットで弾き飛ばすものである」という定義や、「野球はグローブを使ってボールを投げ合うスポーツである」という定義では、野球のある一側面しか表現していないことに似ています。まぁ間違いではないんですが。

また、「殉教」の定義に関して。
辞書的な意味では
「殉教:自己の信仰する宗教のためにその身命を犠牲にすること。」
(広辞苑第五版)
とあります。
しかし、これは少し違和感のある表現で、“宗教のため”とありますが、クリスチャンであれば、おそらく宗教という組織・団体のためではなく、神のため、イエス・キリストのためという明確な対象があると思うのです。つまり、私見では「殉教:自己が信仰する対象のために身命を犠牲にすること」という定義になります。つまり、殉教が行われる目的は組織維持のためでもなければ、自己の精神的な充足のためでもないということです。

ちなみに、仮に
>「殉教」することは「宗教の教えを真っ当して死すること」とすると、「殉教」は殉教者自身の精神性が発揮されて死すること
が正しいとします。
これは「宗教」を除けば、日本人の切腹の風習に近いと考えます。
「切腹」はもちろん、信頼する、愛する対象のために行われる場合もありますが、「自己の自尊心・プライドのため」という側面があったことも否定できません。(なんせ武士を表す象徴的な言葉が「武士は食わねど、高楊枝」(:やせ我慢の美学)ですから。)

まぁ、実際には「殉教」といってもさまざまな動機だったかもしれませんから自分の「自尊心・プライド」のために亡くなった人もいたかもしれません。
でも、使徒パウロは「私みたいなものがイエス様と同じ十字架にかかるなんて申し訳ない。逆さ十字にしてくれ。」と言って“殉教”していったといいます。

私は、キリスト教出発のペテロの“殉教”の精神こそが、“殉教”の定義としてふさわしいのではないかと考えたのです。

まぁ、なんにせよ不十分な表現をして申し訳ありませんでした。
くぼっさんの指摘は正しいと思います。
[2012/06/19 17:20] URL | ぶっちぃ #- [ 編集 ]


>「宗教は人間の精神生活を豊かにするために生まれた」
この内容は、「殉教」することにつながると思います。
「殉教」することは「宗教の教えを真っ当して死すること」とすると、「殉教」は殉教者自身の精神性が発揮されて死することと考えられるわけです。
ゆえに「殉教」は、結果的に「殉教者の精神生活が豊かな状態で生涯を真っ当する事」ではないか、こういうように考えました。

ぶっちぃはどう思いますか。
[2012/06/19 00:58] URL | くぼっさん #- [ 編集 ]


くぼっさんコメントありがとうございます。
>芥川龍之介は、信仰をもつ人が宗教の教えよりも愛するものを優先するということを通して、いかに「愛の作用力」が強いかということの証明に挑戦したのではないか、と勝手に推察しました(^_^;)

芥川の文章を読んでそんな夢のある解釈をしている人を初めて見ました
∑q|゚Д゚|pワオォ!!

もし、読んでないようなら、ブログ上で紹介しました通り、そんなに長いもんでもないんで、ご一読ください。
信仰と愛の問題は簡単ではないですよね。

ただ、こんなネット上の格言を見つけました。
「祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のためへの奉仕を生みます。~マザー・テレサ~」
信仰者にとっては、犠牲的な愛は信仰の産物であって切り離すことのできるものではないのかもしれません。

ちなみに、統一原理では「行って義とされる」行義、「信じて義とされる」信義のプロセスを経て初めて、愛の段階に入るという考え方もあります。
ご参考までに。
[2012/06/17 21:28] URL | ぶっちぃ #- [ 編集 ]


こまちさんコメントありがとうございます。
お元気です(笑)

>お互いがお互いを理解しようとする心があれば、宗教の違いなんて関係なく世界平和は実現するのではないでしょうか。

その通りだと思います。
しかし、時には「あっちが立てばこっちが立たず」なんて場面もあるわけで、簡単にいかないのもまた道理ですよね。
お互いがお互いを理解するには「当たり障りのない関係」では限界があります。
時にはぶつかったり、納得いかないことも何とか越えようと「互いに」歩み寄る中で、成し得るんだと思います。

スポーツが融和を促進するなんて言われたりしますが、きっとスポーツでは同じ目標を共有する中で、価値観が異なっても、その違いを受け止めて行かなければ前進できないという点が、そう言わしめる理由だと思います。

普段のスポーツやPJなどでもそういった基準で、一人一人が挑戦できると良いですね。
[2012/06/17 21:04] URL | ぶっちぃ #- [ 編集 ]


信仰をもたないひとも、信仰をもっているひとも、等しく皆幸せになりたいと願っているわけですよね。
芥川龍之介は、信仰をもつ人が宗教の教えよりも愛するものを優先するということを通して、いかに「愛の作用力」が強いかということの証明に挑戦したのではないか、と勝手に推察しました(^_^;)
人は愛することなしには生きていけないと僕は考えていますが、それほど「愛」は重要だと思います。
それは、信仰あるなしに関わらず重要だと思いました。
[2012/06/17 15:43] URL | くぼっさん #- [ 編集 ]

ぶっちさん
お元気ですか?お忙しい中ブログ更新ありがとうございます。

>信仰を持ち続ける人には、信仰をもつ人にしか 見えていない価値が見えているのかもし れませんね。

本当にそうですね。だからこそ信仰がない人は信仰をもつ人が理解できず異端視したり受け入れられなかったりするのでしょうね。お互いがお互いを理解しようとする心があれば、宗教の違いなんて関係なく世界平和は実現するのではないでしょうか。
[2012/06/17 14:50] URL | こまち #- [ 編集 ]


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